「俺は自分を不幸者だなんて思ってはいない」
さらに締め上げる。ツバサが必死で引き剥がそうとするが、敵うはずがない。
「おい」
さすがに無視できなくなったのか、聡が二・三歩動いて腕を伸ばした。だが、その手は途中で止まった。
「そういう事か」
この場で一人、この状況にもほとんど表情を変えなかった霞流慎二が、やや離れた場所で傍観している。両腕を胸で組み、つまらない茶番だと言わんばかりに呆れていたその表情が、少しだけ緩んだ。
「そういう事だったのか」
言いながら瞳を閉じる。
「納得だ」
「何がだ?」
ワケのわからない言葉を呟く相手に、魁流の瞳が険しさを増す。
「何を言っている?」
その瞳を見返すように、慎二は瞳を開いた。
「聞きたいのなら教えてやる」
金糸が、背中で悪戯に揺れる。
「どうして俺が、愛華と別れたのか」
「は?」
呆気に取られる魁流などお構いなしに慎二は続けた。そうして笑った。
「女がいかに狡猾で、ズルくて意地汚くて馬鹿な存在かということに、気付いたからだ」
「女が、馬鹿? それは、桐井の事を言っているのか?」
いや、そんな事よりも、霞流は突然何を言い出す? なぜ彼と桐井が別れたのか? なぜそんな話が今、なぜ?
気の反れた隙を突いて、コウが魁流の締め付けから逃れる。首元を押さえ、荒い息を整えながら見上げる。逃げた相手に一瞬振り向き、だが再び慎二へと視線を注ぐ。
「何を言っている?」
「聞かれたから答えたんだ。俺は、女の浅はかさを知ってしまった。愛華がいかに卑怯で、薄情な女かという事に、そうして、織笠鈴が、いかに狡猾な女かという事に」
「なっ」
魁流は、目の前が真っ暗になるのを感じた。もともと薄暗闇だが、目の前のすべてが黒く塗りつぶされていくかのような錯覚。
「鈴、が」
そんな事は考えた事もなかった。考えた事もなかったし、そんな話は聞いたこともない。
鈴は清純で聡明で、誰にでも分け隔てなく公平で、争いごとなど好まない優しい女性だった。そうだったはずだ。
魁流はそう思っていたし、今もそう思っている。その考えに疑いを持った事など無いし、間違っているとも思ってはいない。それは、そう思っているのが、魁流だけではないからだ。
鈴がいかにすばらしい女性であるか、それは、俺だけじゃない、他の人間だって認めている。それは例えば唐草ハウスのボランティアだとか、動物の処分に心を痛めていた父親と同じ職場の人間だとか。
「鈴が、狡猾?」
「どういう事?」
魁流と同じように理解できないという表情のツバサが聞き返す。
「鈴さんが狡猾って、どういう事よ?」
「言葉の通りだ。狡くて悪賢い」
「お前っ 何を言っている」
なぜ突然鈴がこの場で侮辱されなければならないのだ? 理解できずに混乱する。何も考えられない。唖然としながら、漠然と怒りが沸く。
「お前、何を突然」
だが慎二は、悪びれもせずに続ける。
「織笠鈴だけじゃない。お前もだ。二人とも、薄情で小心で、狡猾で浅はかで、そして卑怯だ」
「卑怯」
魁流はグッと拳を握り締める。
「俺のどこが、いや、俺の事はどうでもいい。鈴のどこが、どこが卑怯で薄情だと言うのだ」
口にすると、怒りが増す。激情が腹の底から沸き上がり、喉元に競り上がり、口から飛び出す。
「どこが卑怯だって言うんだっ」
まるで竜が火でも吐くかのよう。猛火のような叫びが慎二へ向う。
「ふざけるなっ! 何を言い出すかと思えば、なにを突然鈴の名前などを。なぜ今ここで鈴が出てくる? しかも何だ? 狡い? 狡猾? 何を根拠にそんな事をっ!」
「根拠?」
怒りを滾らせる相手を目の前にして、それでも慎二は涼やかだ。
「根拠など、明白だ」
「何?」
「織笠鈴は、自殺した」
「―――――っ!」
言葉の出ない相手に、慎二は追い討ちのように続ける。
「だいたい、驚く事でもないだろう? だって、織笠鈴が薄情で狡猾な人間だなんて事は、実はずっと前からわかっていたはずだ。ん? そうだろう?」
「え?」
そうだろう?
いきなり同意を求められ、魁流は歯を噛み締めながらも戸惑う。
わかっていた? いつ? 誰が? 俺が?
俺が?
一瞬混乱して瞳を泳がせた魁流に、慎二は瞳を閉じる。
「自分や彼女こそが醜い人間だとわかっていたから、だからお前は妹の存在に腹が立つんだろう?」
「え?」
声をあげたのはツバサだった。
え? 私?
慎二は、目を丸くするツバサへチラリと視線を送る。
「実は妹の方が純粋で、自分の方が穢れている。それを自覚していたから、だからお前は妹の存在が疎ましかった」
「疎ましかった、の?」
語尾を疑問形にして目の前の兄へ視線を移す。魁流は、振り返ろうとはしない。背をツバサへ向けたまま。
柔らかな髪の毛が、風に遊ばれ、乱れて流れる。
「俺は、別にツバサの事なんか」
「昔はそうでもなかった」
慎二が遮る。
「お前は、妹をそれほど疎ましいとは思ってもいなかった。それはきっと、彼女が幼く未熟だったからだろう。自分の幼稚さに気付いていない姿は、お前の目から見れば滑稽だった。自分よりもずっと純粋な存在が道化のように自分を妬んでくる姿が、お前の劣等感を緩和してくれていた。だからお前は妹には優しかった。人は、自分よりも未熟な人間を愛しいと思ったりもするものだ。ダメな子ほど可愛いという心理に似ているのかもしれない。テキパキと仕事をこなす社員よりも、ヘマばかりやらかして常に誰かの手を煩わせている新人の方が上司や先輩から可愛がられるという現象は、職場や学校では珍しくもない」
ただ、と慎二は辛辣に口元を歪める。
「それはただ、年下や後輩などといった、本来ならば自分よりも格下に居るべき存在に、いつかは自分の立場を脅かされてしまうのかもしれないなどといった、恐怖からくる現象でもある」
「恐怖」
呟く美鶴へなど、慎二は視線も向けない。
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